HOME > 女の子ストーリー

女の子ストーリー

「あの子」の話

会津中央乳業では、高品質牛乳として首都圏にもたくさんのファンを持つ「べこの乳」はじめヨーグルト瓶、アイスカップ、トラックのボディー、社員の名刺にも、おさげ髪の女の子「あの子」が描かれています。
会津地方に住んでいる人なら誰でも知っている「あの子」。
みんな知っているのに「あの子」の名前は、誰も知りません。
いったいあの子は誰?
実は、「あの子」には、モデルがいます。
それは今から70年も前のこと。
当時、弊社の創始者・二瓶四郎は、満州鉄道で働いていました。
家族は、妻の文子と2歳になったかわいい盛りの長女の孝子。 しかし、幸せは長くは続きませんでした。

1945年(昭和20年)、第二次世界大戦終結で状況は一変。
終戦と同時に、四郎はシベリアへ抑留されてしまいました。
身重の妻・文子は、引き揚げ船に乗るために、長女を連れて中国各地を逃げ回ります。
着の身着のまま無一文で引き揚げ船を目指した文子と孝子でしたが、食べ物も手に入らず、水も満足に飲めない日々が続きました。
文子の母乳も出なくなり、やせ細った孝子は栄養失調で他界。悲しみに暮れる間もなく文子は、同年12月ハルピンで長男孝也(現社長)を出産。

命からがら日本へ、そして故郷会津に帰ってきました。

3年後、シベリアから生還した四郎は、会津三島町の実家に住む兄から毎日搾りたての牛乳を分けてもらい鍋で沸かして瓶に詰めて販売する仕事を始めました。

坂下ミルクプラント

日本の経済復興と共に牛乳の消費量も少しずつ増え、四郎の仕事も順調に推移して行きました。修業に出た長男孝也が故郷に戻った43年に新製品として発売した製品に入れたのが「あの子」マークです。四郎は社名を「二瓶牛乳」から「坂下ミルクプラント」として法人化したのでした。

坂下ミルクプラント

マークには「あのとき牛乳があったなら…」「栄養があるものを食べさせることができていたなら…」と、子を思う親の切ない思いが込められていました。
「どこの子も健康で幸せに育ってほしい」という願いを込め、牛乳を飲んだ時の「あの子供の笑顔」をマークとして、ずっと「あの子」を大切にしてきました。

あれから50年余り。

山あり谷ありの孝也の仕事をいつもそばで静かに見守り続けていた「あの子」。
よもやの東日本大震災で、会津地方の乳業も生産停止、販売自粛、さらには風評被害と予想もしない試練に見舞われたときもそうでした。「牛乳を必要としている被災者のためにも、とにかく操業を続けたい」「立ち上がろうとしている酪農家を支えたい」と悪戦苦闘する孝也と社員を愛くるしい表情で励まし続けたのが「あの子」でした。

いつも手の届くところにいて、みんなを見守り続ける「あの子」。

「どの子も健康で幸せに育ってほしい」という願いが込められている「あの子」。
どの子も大きくなって天まで届いてほしいから
会津中央乳業は、「あの子」に名前はつけません。
それぞれのおうちのお子さんの名前が一番ふさわしいと思っています。

二瓶牛乳商品
会津中央乳業株式会社

〒969-6521 福島県河沼郡会津坂下町大字金上字辰巳19-1 TEL0242-83-2324

ページの先頭へ

Copyright©2012 AIZU CHUOU NYUGYOU CO.,LTD. All Rights Reserved.